居酒屋と接する生活

その後も近所に住み続けていたわけだから、行こうと思えばいつでも行けたはずなのに、なぜか足を運ぶ機会に恵まれなかったのだ。
そんなわけで、また余談になってしまって申し訳ないのだが、この長崎中学校について、在学中にずいぶんご迷惑をおかけしてしまったお詫びと、後で書くが、今年3月で廃校になったということへの私なりの感慨の気持ちをこめて、知っている限りのことをご紹介させていただこう。 ここでも、戦後問もない、あの時代の匂いが感じていただけるかもしれないので、少しのあいだ、お付き合いいただければ幸いである。
私が通っていた頃の長崎中学校と、廃校が決まった現在の長崎中学校。 当時は木造二階建ての校舎だったが、当然のように、いつの間にか鉄筋に変わっていた。
当初は新制中学の校舎などない。 そんな理由から、全国のたいていの中学校は、初めのうちは小学校の校庭を借りて、青空教室として授業を行っていたのである。
私か通うことになった長崎中学も、ご多分にもれず、最初は長崎小学校の校庭からスタートしたということだった。 その後、すぐ近くに校舎も完成して、そこで授業するようになったのだが、その初代の校長が、日本で中学校の女性校長第1号となったU高ラク先生である。
U高先生は、校舎をきれいにしておくことに、強いこだわりを持っていらした方だった。 掃除の徹底を重要な教育課題と考えておられたようで、今もその初代校長以来の伝統が受け継がれ、先日、私か55年ぶりに学校を訪問したときも、昔と同様、校内がたいへんきれいに清掃されていた。

ほんとうに久しぶりにグラウンドに立って鉄筋の新しい校舎を見上げ私は、ビジネスにも通じる「何事も始めが肝心」という言葉の意味が、こんなことからも納得できると思ったものである。 また、当時は都内の中学校の修学旅行といえば、せいぜい日光あたりに二泊くらいで出かけて行く程度だった。
私もそれに参加したのだが、向こうの土地の人に、われわれの長崎中学が東京のどのへんにあるのか説明しても、よくわかってもらえないのである。 「池袋からS武線に乗って1つ目の椎名町の駅を降りたところで」などと言っても、池袋こそ知っているものの、椎名町からはもうダメなのだ。
そこで、そんなときには、引率の先生は必ず、「椎名町って、あの帝銀事件のあった町ですよ」と付け加える。 すると向こうの人は決まって、「ああ、あそこですか」と得心したような顔をしてくれるのだった。

ここでは居酒屋による、居酒屋のメリットを紹介します。

忘年会性だけが先行して、肝心の忘年会内容はあまり知られていないようです。

居酒屋を扱う企業は次の主戦場となる居酒屋で主導権を握り、失地挽回とともに、業績浮揚の足がかりにしたい考えだ。